リストのいる部屋

Susumu Aoyagi Official Website - 青柳晋 公式サイト

Special

私が感動するとき

あるコンサート後のサイン会にて、ふと顔を上げると初老の紳士が立っていた。 私のコンサートには、ピアノをやっている子供や女性の方が来て下さることが 比較的に多いので、私は珍しく思った。 サインを受け取ったあとに踵を返そうとしたこの紳士は、 ふと思い直したようにその場にとどまって私に言った。 「今日は本当に、ありがとう・・・」 私はこの予想外のコメントに少し驚いた。 挨拶で、というのではなく、このようにしみじみと見ず知らずの方から「ありがとう」 という言葉をもらったのは初めてだったからである。

「昨年他界した妻がピアノがとても好きだったんです。 とくにリストの作品が気に入っていて・・。」 彼の後ろにはすでに次の人が待ち構えていたが、 思わず私は用意されていた椅子から立ち上がって、机越しに彼の話に耳を傾けた。

彼は、奥さんが亡くなってから1年経った今も、彼女が大好きだった ピアノのコンサートに一人でよく足を運ぶのだと言う。 彼は語っているうちに感極まったのか、みるみるその目には 涙が滲んできた。私はたじろいだまま、ついにろくな言葉もかけることが出来なかった。

「今日は最後まで妻と一緒に聴いているかのような、 とても幸せな気持ちで聴くことができました。 本当にありがとう。」と言うと、 彼は次の人に場所を譲ってから、振り返って会釈をして帰って行った。

帰りの車の中でこの話をしていると、 「それは・・・とても、幸せなご夫妻ですね。」と私のマネージャーが感想を述べた。 そして自宅に戻ってからも、私はしばらくこの老紳士について考えていた。 私は両親や伴侶を失うような境遇に遭ったことはまだない。

「個人差はあるにせよ、人間の青春とは概ね40歳まである。 人はそこから長い時間をかけて、どのような老後を過ごすか、 どのような心境で死を迎えるかに対してのイメージを固め始める。」 と私がドイツで仲良くしていた年上の友人が言ったことがあったが、 私はまだ死に対するイメージや覚悟は出来上がっていない。 今の私は、多少の無理な計画を大した疲れも感じずに遂行できる若さは備えているが、 かと言って「若気の至り」という言葉はもはや許されない、 言わば宙ぶらりんな世代に属していて、「その後に待っているもの」について 考えを及ぼすゆとりがないのだ。

一日が終わった疲労感を覚えつつも、考えを進めるにつれて 「今日は、本当にありがとう。」というこの老紳士の言葉は しみじみとした優しさをもって私の心に浸透してきた。 技術的な完成度の高さをほめられることは、実は演奏する側にとって それほどうれしいことではない。プロであれば、十分な練習量によって ある程度曲を手中に治めていることは必要条件であるからだ。 だから、私は聴き手に「感銘を受けました。」と言われることこそが 最高の賛辞であると信じてきた。

しかし、この紳士の言葉には単に「感銘を受けました。」という言葉よりも、 私の世代では計り知れない、ずっと重いものを含んでいるのだと感じた。

聴き手がコンサートに何を求めてやってくるか、ということは未知数で そう簡単に推し量ることはできない。

演奏とは、弾き手のアイディアと聴く人の反応によって成り立つものであるが、 ひょっとしたら聴き手から学び取ることのほうが多いのかもしれない。