リストのいる部屋

Susumu Aoyagi Official Website - 青柳晋 公式サイト

Special

ホールの神様

私はとある人に、 「コンサートの回数の多さで、演奏の密度が薄くなってしまうことはありませんか?」 と聞かれた。私は、この言葉を聞いた瞬間から、いや、それよりずっと前から この問題を反芻し、噛み砕いては分析し、なんとか今後の参考になるような 答えを探し出そうとしている。数年前に比べてのんびりと過ごす時間が 激減した現在、このことがずっと脳裏に巣食う最大の考え事だと言っても過言ではない。 しかし、これといった解決策は未だ見つかっていないと いうところが正直な感想だ。

コンサートを減らせば、本当に演奏の密度は濃くなるだろうか? 水が少なくなれば香りが強くなるコーヒーの濃度のように、 演奏とはそんなに単純なものだろうか、と私は疑問に思う。 とある、別の先輩が私に言う。 「若いうちは多少無茶をやってもいいんだよ。 まだあなたは無茶をやっても許される世代だから。そのうちに 自分のペースというものが分かってくるだろうしね。」 何よりも大切なことは、きっと探究心を絶やさないことなのであろう。 しかし後年、「無茶をやらない世代」になって、月1回のコンサートを 年に2回に減らし、研究の時間を増やしたからといって、 その日その会場で満足な演奏ができる保障はどこにもないのである。

確かに疲れ切ってしまっている状態で良い演奏をすることは 困難なことかもしれない。 しかし、私のまだそれほど長くはない演奏経験の中で 記憶に残るくらい気持ち良く弾けた日は、何故か 精神・体調ともにほぼ最低の状況にあったのである。 もう音を聞きたくもない。弾きたくもない。最後までプログラムを通すのが やっとかもしれない、と思って舞台に出て行った瞬間 人が変わったかのように軽やかに自分の世界に入り込むことができた。 私はあの感覚を再び味わってみたくて練習を続けているのではないかとさえ思う。

「ギリギリまで想い続けることに意義があるのかもしれない」と思い立って 私はその日の精神状態を忠実に再現しようとしたが、 それも無駄であった。 また、非常に優秀なドイツ人のピアニストの友人が 「その日の演奏の良し悪しはアドレナリンの分泌量に比例すると思う。」と 私に語ったことがあったが、この考えももう一つ私に実感を伴って押し迫ってこない。

私が苦戦した挙句ようやく分かってきたことは、人の心と体のメカニズムは 理屈では解析できない、ということただ一つなのである。 情けないこととは思いながら、これは真実であるからしょうがない。

入院するほど無茶をやることは勿論無意味である。 仕事は大変だが、人にとってもっと苦しいことは「仕事ができない」 ということであるだろうから。

ただ、私はショートすることを恐れたくはない。 あの、「外の世界」がすっかり遮断されて自分の世界に入って行ける タイミングは、私ごときの度量では推し量れないからだ。

いささかナイーヴな夢かもしれないが、私はホールのどこかに その日の演奏の出来をただ一人静かに見越して、私の動向を 見守っている神様が棲みついているような気がしてならない。 私は自分自身の成長と、私にとって全能なるその存在のために 模索することを続けていきたいと思っている。