リストのいる部屋

Susumu Aoyagi Official Website - 青柳晋 公式サイト

Special

コントロール!こころ編

目の前にある鍵盤から音を紡ぎ出していって、それがホールの奥から反響して 帰ってくる過程に耳を傾ける。そうして家の中で弾いているときとは全く違った感覚で、 空間の中に響きによる建築物を作り上げていくような感覚に捉えられる。 その瞬間に雑念は振り払われ、心は鎮まり返って人前で演奏する事は少しも 苦にならず、時間を忘れて意識はひたすら音とイメージに傾けられていく。 弾き手にとっての、この至福の瞬間は演奏会の最中にいつ訪れるかは分からない。 あの不思議な感覚は日によってコンサートの後半だけ感じられるというときもあるし、 出番が短かったり、小品だけのプログラムでは最後までなかったという場合もある。 弾き手にある程度共通していることは、あの不可思議にして心地よい感覚の中で弾きたくて 演奏会の数日前から四苦八苦しているということだ。 どうしたら自分の心をコントロールできるのだろうか?

例えば三日後の、或いはニ時間後の自分の精神状態をあらかじめ設定しておくことは できない。願わくば無の状態でありたいが、その領域に達する確実な 方法というものは存在しないのではないか。本番を重ねるたびに心を “空っぽ”にしようと試みてはみたが、本番当日のうちに頭に浮かんでは 消えてゆく雑念の多さにかえって驚かされたりもした。ある程度満足に 弾けた時の事を思い返してみると、逆にギリギリまで追い詰められていた 心境で臨んだコンサートでの集中力が高かった場合が多いように思う。 ある演奏会の本番前、あまりの疲労感とストレスで思考回路がほとんど ショートしかけていたときがあった。無事に弾きとおせる自身は全くなく 願わくばキャンセルしたいが、気分によってコンサートを破棄したりしたら 次につながらなくなるばかりか、自信をなくしてしまうことは目に見えていた。 意を決して楽屋のソファーから立ち上がり、蝶ネクタイを結んで コーヒーの角砂糖の包みを開け、三粒ばかり口に放り込んで 舞台に出てピアノに向かったと同時に、別世界にいるような感覚で軽やかに プログラムを弾き通せたこともあった。

体とは違い、心を好きな状態に持っていくための特効薬はない。 いくつかの良い状態から共通点と矛盾を同時に見出し、またその 矛盾の中から答えを見つけるというように、弾き手にとって 演奏する場というのは、関心を持てば持つほど解けない なぞなぞ遊びのようなものなのかもしれない。

コントロール!からだ編

食べ物の種類の豊富さと品質において、 日本は世界でトップクラスに属している、 あるいは世界一の国かもしれない- そう感じたことのある人はおそらく かなり沢山いる事と思う。その人が単に各国の名物 食べ歩き旅行をしたというのではなく、 ある程度の期間外国で滞在したことがあるのであれば その感慨はなおさらであろう。 とある(食文化の水準の高さで有名な)国のコンクールで その食生活の意外な質素さに驚き、ひもじい腹で 苦し紛れにコンチェルトを弾かねばならなかったという 失敗を経験をしてから、“その夜の体調を決める食事の メニュー”に対する私なりの考えが経験を重ねるごとに まとまってきたように思う。私には栄養学の知識はないから 根拠は説明することはできないが、弾く事を通じて 体で感じた演奏に適するメニューは俗に言う“精のつく 献立”とは少しちがうように思える。

鰻(×)-脂っこすぎる。腹にもたれていざ弾くときに
シャキッとしない。

おにぎり(○)-演奏二時間前にはもっともおすすめ。
ほどよくエネルギーが持続する。

寿司(×)-喉が渇くので要注意!

パスタ(△)-一時的には力がでるが、持続しない。
リサイタルには不向き。

牛肉(○)-夜の演奏会であれば昼食にベスト。力が安定して
持続できる。

糖類・チョコレート(△)-一瞬しか力がでない。しかし
どうしようもなく疲れているときなど休憩時間に
とることもある。

バナナ(○)-エネルギーが程よく持続し、なぜか集中力が
高まる。私には必需品。

どんなによく準備されたプログラムでも、本番の出来はその時の 体調にほとんど左右されてしまうので、食べるものの内容は かなり重要だ。しかし体のコントロールには成功しても、 なんといっても一番厄介なのは本番への心の持っていき方 であろう。

リストのソナタの話

リストのソナタの一番最後の部分をご存知ですか? この大曲は絢爛たるクライマックスの後、静寂の中で ピアノで演奏可能な一番低いロ音(h)で締めくくられます。 この最後の一音を“天使の祝福”、或いは“悪魔の微笑み”と取るかは あなたの解釈による、と当時尊敬する師に言われたときから このソナタについての考えを私なりに進めてきました。

“まるで手にとるように分かりやすくて、いや、 その精神世界が分かりやす過ぎるがために 自分にはこの手の世界観がつまらない。” これはとあるピアニストの友人がリストの 音楽を評した時の言葉です。 確かに“ダンテを読んで”、“ソナタ” “オーベルマンの谷”において見られるように 地獄で罪の重さに耐え切れず喘ぎ苦しむ人間の前に天使が現れて、 天国へ導いてゆくという発想はドライな現代人にとって いささか単純明快すぎるかもしれません。 しかしここではロマン派の気風というものについて 考察する必要がありそうです。

“私はあなたがいないと呼吸することもままなりません。 そのお姿を見れないとあらば、忽ち私は死んでしまうでしょう。” これほどまでに熱烈な(恥ずかしい?) ラブレターをしたためることは現代においてはためらわれる かもしれませんが、リストが生きていた時代では このようなスタイルで語るのはごく当たり前のことでした。 スーパースターから宗教家にいたるまで変貌を遂げ、 様々な顔を持っていたといわれるリストですが、 書簡からはナイーヴでありながらも移り変わるその時その時を ピュアな姿勢で大まじめに生きていたことが伺えます。 こうした気風に考慮に入れて、現代においてロマン派の世界をを忠実に、 少しもためらわずに再現しようとした場合、リストのソナタの最後の一音は 天国への帰化の表れとして捉えるのが正統な解釈といえるかもしれません。 しかし、この音にディアボリックな雰囲気を持たせることによって 安らぎの世界に完結した全曲に改めて不吉な余韻を残す、 というアイディアもいかにも魅力的に思えてなりません。

考察はまだ続きそうです。。

ショパンのソナタの話

この世に沢山ある楽曲の中で、初めて聴いた ときから明確に ヴィジョンが浮かび上がってくる ものと、日々想像力を深めて- つまり努力に よってその曲の情景を頭の中で形作らなければ ならないものがある。

小さい頃から子守唄がわりに 聴いたショパンの 第三番ソナタの三楽章中間部は、 私にとって間違いなくなく前者に属する。 まだ幼かった時、寝る前にこの曲のLPをかけながら 眠りにつこうとすると、 きまってある強烈なヴィジョンに とらわれた記憶が今も鮮明に残っている。 それは ひとりの男が日が既に傾き始めた頃、誰もいない草原に ひとり 佇んでいる情景である。草の色は瑞々しい若葉色ではなく、 どちらかといえば 夕陽に染まった黄金色で葉が長く、しなやかに 地面を覆い尽くしている。 男は病み上がりで、意識が朦朧としていて ここに自分が佇んでいる事が 夢なのか現実なのかを判断する事が出来ない。 はっきりしていることはそこが 人里離れていて、辺りを見渡してもそこには 自分一人しかいないということだけである。 彼はその場所を訪れた事は一度もないはずなのに、何故かもの悲しくも “なつかしい” 感情にとらわれてしまう。

目を閉じて聴いていると、 この曲の持っている雰囲気が 脳裏に明確に映るヴィジョンと あいまって、いてもたってもいられないような切なさを もって胸に迫り、当時子供心にも粛然としたものである。 後年、もはや子供とは いえない年になってこの曲をある コンサートで演奏した後に、“目を閉じて演奏を 聴いていて脳裏に ある映像が浮かんだ”というドイツ人が楽屋を訪ねてきた。 興味をそそられてそれはどんな映像か聞くと、それは 驚く事に子供の頃に 抱いていたイメージとほとんど 寸分違わぬ草原のヴィジョンだった。草の色、夕方 という時刻から “主人公の感情”まで、どこまでもそっくりで度肝を抜かれて しまった。 ピアノを弾いてきてここまで正確に自分の意図が聴き手に 伝わったのは勿論 これが最初でいまのところ最後だが、この出来事は非常に興味深い音楽体験の 一つとして強く印象に残っている。